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歴史街道を歩くNo.10

2012-12-20 (Thu) 06:20

今年最後の歴史街道歩き、今回は甲州街道歩きの第15回分。韮崎宿から台ヶ原宿までを歩く(12/18)。参加者は18名、新宿を7時半に発ったバスは事故の笹子トンネルを迂回するコースを、大月から河口湖に出て一宮御坂までを一般道、そして韮崎インターへ。行程のスタートも約1時間遅れとなった。

今回はバスで最初に新府城跡を訪ね、そこで一旦戻って韮崎市役所へ。それから街道歩きのスタートとなった。韮崎宿から台ヶ原宿までの間は釜無川の度々の氾濫があったため、道中のうちでも最大の4里の距離がある。多くの道筋は失われていて今の国道20号線近辺であったと推定される。釜無川沿いをひたすら歩く、雰囲気を楽しむ、そんな歩き甲斐のある18キロだった。歴史にまた一歩近づいた。

武田の里 韮崎市を歩く       新府城跡を訪ねる
武田の里  新府城本丸跡

新府城:武田勝頼が天正9年(1581)2月に築城に着手し、12月に完成。躑躅ヶ崎(つつじ)からこの地に移ったものの、翌年3月に織田軍の侵攻を前に自ら火を放ち郡内岩殿城へ。本当に短命の城であった。南北600m、東西500mの平山城で、石垣は用いられていない。本丸の西に二の丸、東に稲荷曲輪、三の丸や大手門跡などが残存している。裏手側はあの七里岩の崖が続いている。

天気は前日とは打って変っての快晴、午前中は大変に心地よい街道歩きとなった。が、遅めの昼食(弁当)を済ませた午後、特に大武川橋前後の国道20号線沿いの行程は、向かい風の寒風吹きすさぶ中をひたすら歩くきつい行程となった。ゴールは台ヶ原の北原家住宅だ(今は七賢酒造の看板が) 町指定文化財となっている。

街道歩きのスナップの一部
韮崎市役所              水難供養塔
韮崎市役所  水難供養塔
左:韮崎市役所の広場にある武田信義の騎馬像。新羅三郎義光から4代目で、武田氏の祖とされる。釜無川に架かる武田橋を渡った対岸が武田氏発祥の地である。
右:昭和34年(1959)8月14日に襲った台風7号による水難供養塔。この近辺は、かって釜無川の氾濫が続き、多くの犠牲者が出た。水難供養に関する石造物の多さが、信玄の時代からの水害の歴史を語っている。

一里塚跡               古道入口 はらぢみち
一里塚跡  古道入口の標
左:真新しい旧甲州街道の一里塚跡。甲府からは7里と刻まれている。
右:平成20年につくられた台ヶ原古道入口の道標。古道原路道(はらぢみち)をこの道標の横を尾白川に沿って進む。ほとんど人が通らないような路、草を踏み分けそのままブドウ棚に自然と入ってしまう。

台ヶ原宿本陣跡           北原家住宅(七賢酒造)
台ヶ原宿本陣跡  北原家住宅
左:古道の田圃のあぜ道を進み、20号線との合流地点が台ヶ原宿。
右:北原家住宅(七賢酒造) 北原家は寛延2年(1749)頃に高遠から移住した後、この地で造酒屋を営み、幕末には諏訪高島藩の御用商人を務めていた。この建物は、全国的にみても第一級の幕末大形町屋となっている。

このゴールとなった北原家住宅で、近くに山荘を持つ旧知のメル友と落ち合う予定があったが行程の時間管理が難しく、行き違いとなってしまった。なにしろ、午後からは全員が寒風の中でのひたすらの急ぎ足となり、前回と比べて30分近い行程の短縮となってしまったからだ。約十年振りくらいとなる再会が果たせなかった、残念。
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最終更新日 : 2015-12-31

Comments







非公開コメント

いい旅ですね

 羨ましい限りです。新府城 あこがれの城です。一度訪ねているのですが、勝頼亡き後の甲斐争奪戦で、家康と我が領主後北条氏が複雑な戦いをしたところで、解らない事だらけの場所、この記事に接し、また、行きたくなりました。 野火止用水
2012-12-20-08:03 野火止用水
[ 返信 ]

Re: いい旅ですね

新府城。歴史街道歩きのきっかけがなければ、その所在地や歴史的な位置づけなど頭の片隅にも残っていませんでした。韮崎市は武田家ゆかりのものも多く残っており、確かに武田の里でした。空堀川
2012-12-21-06:47 空堀川
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