2012-11-14 (Wed) 07:00 ✎
甲州街道の石和宿から甲府柳町宿までを歩く。参加者は24名、今回も盛況だ。新宿から中央高速でスタート地点までバスで向かう。13日の秋日和、車窓から時どきのぞく富士山の雪の頂がきれいだ。
かるい体操の後、主な工程の石和八幡宮--甲運橋--川田の道標--武田氏川田館跡--山崎刑場跡--酒折宮--甲府本陣跡--石川家住宅--天尊躰寺--甲府柳町宿..を歩く。食事後にバスで、武田神社(武田氏躑躅ヶ崎館跡)--甲斐善光寺..と講師の話を聞きながら周った。歩程は約9キロくらいか。
今回の歴史街道歩きは甲州街道#13、既に顔見知りとなった仲間と会話も楽しみながら甲斐の国を歩いた。昼食の甲府駅前の小作で食べたカボチャほうとう も美味かった。
歴史街道歩きの甲州街道も残り8回となる。都合で参加できていなかった回の埋め合わせ予約も済ませた、春までには甲州街道全18回を終えられそうだ。歴史街道歩き、江戸の時代にまた一歩近づいた。
撮った画像の抜粋とひとこと:
武田信光が鎌倉の鶴ケ丘八幡宮を勧請(1192)したと伝えられている。その後何度か建て替えられた石和町最古の建築物であったが、平成18年末(2006)の放火で焼失したとのこと。石和八幡宮から250mで甲運橋を渡る、ここまでが石和宿だ。
初狩PAからの富士山 石和八幡宮

山崎三叉路、甲州街道と青梅街道の分岐点がある。(青梅街道がこんなところまできていたとは)その直ぐ脇にある山崎刑場跡。設置年代は不明だが、切り捨て場2ヶ所、首洗い井戸4ヶ所、骨捨て井戸1ヶ所があったとのこと。明治5年(1872)地租改正に関係した「大小切騒動」の処刑を最後に、今は跡形もなく、供養塔のみが残っている。
山崎刑場跡

甲州三法と「大小切騒動」:
甲州三法とは戦国時代の武田氏のころから江戸時代を通して、この地方で通用した甲斐独特の通貨(甲州金)、税法(甲州大小切)、計量(甲州枡)のこと、明治時代まで受け継がれてきた。明治政府が全国統一の税制にするため明治5年、山梨県令による「甲州大小切税法」の廃止を通達。これを聞いた県下97ヶ村の農民が決起したのが「大小切り騒動」だ。終には処刑者も出た。
酒折宮の祭神は日本武尊、連歌発祥の地として有名。日本武尊が東征の途中、甲斐の酒折宮に立ち寄り火炊きの老人と歌問答を交わしたという伝説が残っている。「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と詠んだのに対し、「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」と答えたという。この問答が連歌の起源とされた、碑にも書かれている。
酒折宮 連歌の碑

甲州街道からは2キロ以上離れるため武田神社にはバスで向かった。祭神は武田信玄。神社を中心とする一帯「躑躅ヶ崎」(つつじがさき)と呼ばれる辺りが武田氏の館跡。武田信虎が石和・川田から居館を移し(1581)、武田勝頼が新府に移るまで62年に亘り武田三代の本拠地となった。後に館跡に神社が造営された。館跡の敷地内で、今も大勢の人が発掘作業に取り組んでいた。
武田神社 武田氏本拠躑躅(つつじ)ヶ崎館跡

甲斐善光寺、開基武田信玄(1558)。右の画像は境内のはずれにある「牛に引かれて善光寺」のいわれのある霊牛碑。
甲斐善光寺 霊牛碑

中央高速での帰路、石川PAで降車して路線バスに乗り換え、日野駅から立川に出て帰宅した。こんなルートもあるんだ。
かるい体操の後、主な工程の石和八幡宮--甲運橋--川田の道標--武田氏川田館跡--山崎刑場跡--酒折宮--甲府本陣跡--石川家住宅--天尊躰寺--甲府柳町宿..を歩く。食事後にバスで、武田神社(武田氏躑躅ヶ崎館跡)--甲斐善光寺..と講師の話を聞きながら周った。歩程は約9キロくらいか。
今回の歴史街道歩きは甲州街道#13、既に顔見知りとなった仲間と会話も楽しみながら甲斐の国を歩いた。昼食の甲府駅前の小作で食べたカボチャほうとう も美味かった。
歴史街道歩きの甲州街道も残り8回となる。都合で参加できていなかった回の埋め合わせ予約も済ませた、春までには甲州街道全18回を終えられそうだ。歴史街道歩き、江戸の時代にまた一歩近づいた。
撮った画像の抜粋とひとこと:
武田信光が鎌倉の鶴ケ丘八幡宮を勧請(1192)したと伝えられている。その後何度か建て替えられた石和町最古の建築物であったが、平成18年末(2006)の放火で焼失したとのこと。石和八幡宮から250mで甲運橋を渡る、ここまでが石和宿だ。
初狩PAからの富士山 石和八幡宮


山崎三叉路、甲州街道と青梅街道の分岐点がある。(青梅街道がこんなところまできていたとは)その直ぐ脇にある山崎刑場跡。設置年代は不明だが、切り捨て場2ヶ所、首洗い井戸4ヶ所、骨捨て井戸1ヶ所があったとのこと。明治5年(1872)地租改正に関係した「大小切騒動」の処刑を最後に、今は跡形もなく、供養塔のみが残っている。
山崎刑場跡

甲州三法と「大小切騒動」:
甲州三法とは戦国時代の武田氏のころから江戸時代を通して、この地方で通用した甲斐独特の通貨(甲州金)、税法(甲州大小切)、計量(甲州枡)のこと、明治時代まで受け継がれてきた。明治政府が全国統一の税制にするため明治5年、山梨県令による「甲州大小切税法」の廃止を通達。これを聞いた県下97ヶ村の農民が決起したのが「大小切り騒動」だ。終には処刑者も出た。
酒折宮の祭神は日本武尊、連歌発祥の地として有名。日本武尊が東征の途中、甲斐の酒折宮に立ち寄り火炊きの老人と歌問答を交わしたという伝説が残っている。「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と詠んだのに対し、「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」と答えたという。この問答が連歌の起源とされた、碑にも書かれている。
酒折宮 連歌の碑


甲州街道からは2キロ以上離れるため武田神社にはバスで向かった。祭神は武田信玄。神社を中心とする一帯「躑躅ヶ崎」(つつじがさき)と呼ばれる辺りが武田氏の館跡。武田信虎が石和・川田から居館を移し(1581)、武田勝頼が新府に移るまで62年に亘り武田三代の本拠地となった。後に館跡に神社が造営された。館跡の敷地内で、今も大勢の人が発掘作業に取り組んでいた。
武田神社 武田氏本拠躑躅(つつじ)ヶ崎館跡


甲斐善光寺、開基武田信玄(1558)。右の画像は境内のはずれにある「牛に引かれて善光寺」のいわれのある霊牛碑。
甲斐善光寺 霊牛碑


中央高速での帰路、石川PAで降車して路線バスに乗り換え、日野駅から立川に出て帰宅した。こんなルートもあるんだ。
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最終更新日 : 2015-12-31
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